物心がついた時、憧れていた仕事は広告制作業でした。街頭に大きく貼り出されている商品ポスターやテレビコマーシャル等のコピーライティング、ビジュアルデザインを手掛けたりする『広告クリエイティブ』と呼ばれるあのお仕事です。
そして20代になり、念願叶って足を踏み入れた広告業界。見事、広告代理店でのクリエイティブ業務に従事することとなり、意気揚々と仕事に取り組み始めるも待っていたのは地獄の日々でした。
仕事は想像していた通りのやりがいもあるし面白味もある。言葉ひとつ画ひとつで人の心と行動を惹きつけ動かすことが出来る広告の奥深さに改めて心酔もしました。
では何が地獄だったかと言えば、「自分がなんと仕事の出来ない人間なのか」を毎日毎日突き付けられ続けたこと。
その頃の自分が担当していたのは企業人格の発信に関わる広告クリエイティブ。企業が社会や社外に向けて発信する領域部分(広報活動や採用活動に関する広告など)のお手伝いをする広告制作が主たる業務でした。
広告提案前には広告主からその目的や実現したい効果についての説明(オリエンテーション)があり、それを踏まえた上でのソリューション提案を行っていくのですが
- どれだけ頭を絞っても良い企画が思いつかない
- どれだけ徹夜しても企画書の仕上がりが遅い(=ブラッシュアップの時間がいつも無い)
- ロジックがまとめきれていないことも多く、よってプレゼンテーションも下手
と自分はもう散々です。もちろんコンペでも勝てない勝てない。勝てなければ仕事もありませんので完全なお荷物です。
広告関連、自己啓発関連といったビジネス書を読み漁り、セミナー等にも学びを求め、トライアル&エラーも繰り返し、人並みに一通りの努力はしたと思います。でも、ダメでした。なかなか結果が出せません。自分は優れた人間ではないかもしれないけれど決して劣ってもいない、と思って踏ん張り堪えることで精一杯の日々でした。
売上成績等のことで言えば、もちろんずっとゼロだったわけではありませんので戦力外通告にはならずにいましたが、いつまでたっても胸を張れるような晴れ晴れとした仕事が出来ません。苦しい、不満足、不愉快な心持ちが常に胸中にあるんです。今ならその理由が何となく分かる気もするのですが、当時の自分には分かりません。
そして、やがて出した答は
広告業は自分には向かない。
逃げではないですが、人には向き不向きがある。嫌な感情を抱えたままで生涯この仕事を続けていくのかと考えた時、続けていこう・いきたいという選択肢やエネルギーはありませんでした。というか、捨てました。広告業に携わって11年。出した答がこれとは笑っちゃいますよね。自らそう腑に落とした時も笑ってしまいましたもの。もうそれでいいや、と(苦笑)。
仕事が出来なくて進まなくて苦しかった時のことは未だに夢で見ます。それこそ本当に頻繁に鮮明に。同僚先輩上司の声、フロアの映像、すべてがクリアに蘇ってきます。出来なくて焦って、息苦しくなって、視界が狭まっていくあの独特の苦しい感じ。性格や環境、時代、物事のタイミング、様々な要素があるのだと思いますが、本当に自分には向いていなかったのだろうなぁと思います。
*
さて、11年かけてようやく離れることを決意した広告業界。次のあてなどありません。しかも当時は結婚をして、子育てデビュー間もない時期(長女/当時1歳)でもありました。すぐにでも生活を組み立て直さなければなりません。背に腹はかえられず、職歴を見てもらえればすぐ仕事に就けるだろうと広告制作の求人に応募をしました。
…え!?
ここまでお読み頂いた方なら当然そう思いますよね(苦笑)。
計算通りすぐの再就職は勝ち取りましたが、仕事を始めるや否や「企画できない」「文章書けない」「デザイン出来ない」「息苦しい」等の不安不快な感覚が再び頭をもたげてきます。
結果、ひと月で退職となりました。改めて「自分はバカだ…どうしようもない…」と思い知らされた一件でもありました。
そうした中でも「人生の夏休みだと思えばいいよ。ちょっと休んで、ゆっくり考えればいいよ」と声をかけてくれた妻には本当に救われ、助けられました。家族に甘えさせてもらい、私はここでようやく人生初とも言える自分の人生の棚卸をしたのです。
それまでの職歴、得た知識、身につけた技術はさておき、自分が興味を持っていたり強く記憶に残っていること、誰かにしてあげたかったり、嬉しくなったりするようなこととは一体何なのか。仕事としても向き合えそうなものは一体どこにあるのだろう、と。
紙に書き出してみたり、何かをしていて思いついた時には付箋やメモ帳にすぐ残したり。同時に一つ一つを吟味精査。やがて残ったこと。それが『トイレ掃除』でした。
広告代理店時代、イエローハットの創業者である鍵山 秀三郎氏が続けている清掃活動運動(※鍵山氏の清掃活動についてはこうした記事もどうぞ)の一端に触れる機会があったのですが、触発され、以来自分でもトイレ掃除を習慣的に行うようになりました。
そしていつしか掃除をした後の爽快感やトイレ空間の匂い(これは洗剤の匂いでもあったのですが)が大好きになり、癖になり(笑)。
人生の棚卸をした時、今の自分の身近にあって、嬉しくなり、楽しくも思え、病める時にも続いていたことは『トイレ掃除』だったのです。
それに気がついた時はまさに雷に打たれたような衝撃でした。とまでは言えませんでしたが、
掃除だ!
と思ったことだけは確かで、すぐに長野市内にある清掃会社さんを調べ、各社にメールしたことだけは今でもはっきり覚えています。
「素人です。30代半ばです。掃除が好きだと気が付きました。働かせてもらえませんか」
簡単に言えば、そんな内容のメールでしたが、もらった方は驚いたことと思います。安直でおバカ丸出しだったようにも思うのですが、何の技術経験も持たない自分にはそうした気持ちを綴ることくらいしか出来ませんでした。
そんな中、ご縁を頂いたのが独立前まで勤めていた『ダスキン ビホーム(ビホームテクノクリエート)』でした。ここで私の第二の仕事人生が始まります。雇い入れてくださった社長(現会長)には感謝の気持ちしかありません。
社長は私の父と同世代の方でもあるため、現在では70代を迎えて第一線を退いたということもあり、現場作業を一緒に行うことは少なくなってしまいました。それでもまだまだ教えて頂きたいことも沢山あるため、会った際には「ずっと元気で、いつまでも現場に出てくる社長でいてください」としつこく話しかけています(笑)。
そんなダスキン ビホームにて数多の清掃作業を経験させて頂くこと7年。勤め人のままではなかなか取りづらいアクションなどもあったため、わがままを言って独立させて頂き、現在に至っているという次第です。
*
最後に。
広告業に携わっていた時、私はおそらく『人』、というか『自分の仕事の向こう側にいる人の感情』をとても疎かにしていたように思います。
「自分の創作物はこれだけインパクトあるんだぞ」「ウィットに富んで面白味があるんだぞ」と、承認欲求の産物そのものと言えるものしか作っていなかった。それに対する高い評判評価が欲しかった。それが思い通りに叶わないから、ずっと嫌で面白くない気持ちを自分自身発し、抱えていたのだと思います。
誉ればかりに目を奪われた独りよがりの思考と行動に結果(お客様からの信頼や期待、感謝)が伴ってこないことは至極当然の成り行きです。
大切なのは、人が欲しいものを作り出すこと。
人が欲しいものと自分の作りたいものを限りなくイコールに近づけていける仕事をすることこそが、自他ともに楽しく、嬉しく、丸く収まっていける結果を生む。それが何より自分が目指していきたい仕事の姿なんじゃないのかなと今では考えたりもしています。
人が欲しいものをしっかり想像/創造していくことが出来れば、それはやがて自分が欲しかったもの(評価や信頼、期待)にも成り替わってくれます。
自分は広告業ではそれが上手に出来なかった。
清掃業でそれが叶えられているかはまだまだ分かりませんが、少なくともあの頃の自分が考え及ばなかったことにも気持ちを寄せて取り組むことが出来ているという点では今のところ道は誤ってはいなかったのかなと思います。
掃除によって「嬉しいことを実現できた」「喜ばしいことが起きた」「暮らしや仕事の風向きが良い方へと変化した」、自分を含めそんな人が一日一日、一人二人と増えていけば良いなと思い、今日も今日とて、今のあるを尽くしたお掃除でお目にかかりにまいります。
【福寄せ清掃】のお掃除のむらかみ <むらかみ清掃技研>、村上隆浩でした。